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NHK番組インターネット同時配信が法改正で可能になったとのこと [文化]

NHK番組インターネット同時配信が法改正で可能になったとのこと

 とても良いニュースだと思う。
 インターネット同時配信は、NHKニュースとNHK番組宣伝とNHK番組表は、無料で誰でも視聴できるようにすべきだ。
 もう一つ、外国人向け日本語講座、初めての日本語、旅行会話、日常生活、発音、アクセント、書き言葉、話し言葉、作文、語彙、文法、用例、敬語、諺、故事成句、慣用句、古文語、等各水準毎、短歌、俳句、詩、小説、古文、漢詩・漢文、その他専門分野毎のものを無料で誰でも視聴できるようにすべきだ。
 「ニュースで日本語」という番組も諸外国に向けて造って発信したらと思う。
 NHKアナウンサーが入れ替わり立ち替わり、発音を例示する。
 「世界へ発信!SNS英語術」のように、著名又は人気日本人も時折ゲスト出演させるのもほしいと思う。

 それ以外は、NHK受信料を国内で徴収していることとの均衡上、受信料支払い契約した者だけが視聴できるようにすべきだ。
 その収入を新たな番組制作やインターネット関係経費に充てることがみんなのためにとって良いことだと思う。

 NHKビデオオンデマンドも、原則有料で諸外国でも視聴できるようにすべきだと思う。
 そして、ビデオオンデマンドで見ることができる範囲を需要に応じてどんどん増やしていくべきである。
 NHKスペシャル、紅白歌合戦、SONGS、らららクラシック、クラシック音楽館、音楽、ドラマ、古典芸能、アニメ、歴史ヒストリア、ブラタモリ、小さな旅、日曜美術館、サイエンスゼロ、短歌、俳句、健康、料理、高校教育講座等がビデオオンデマンドで世界中に有料配信されると良いと思う。

 そして、インターネッセキュリティでも、NHKは貢献してほしいと思う。



長野県で信濃美術館整備基本構想が策定されたとのこと [文化]

 改善整備することはいいことだと思う。
 信濃美術館は、一度か二度くらいしか行ったことがない。
 池田(いけだ)満寿夫(ますお)の抽象画が気に入ったのと東山(ひがしやま)魁夷(かいい)の絵が清涼感のある色だなと思ったぐらいが印象に残っている。
 大勢の来館者の中でもみくちゃになるのはいやだった。
 無料でもらえる資料や安く買える画集、解説書が少なかったような気がする。
 「国宝弘法大師空海展」とか「興福寺国宝展」とかのような、写真と諸元データ、解説がたっぷり載っているものが安く手に入るような方がありがたい。
何度でも見かえすことができるから。
 写真も小さなものでなく、じっくり詳細まで見ることができるようなものがありがたい。
 サムネイル程度の写真では、がっかりだ。
 大体、展示室では、照明が暗めだったり、近くに近づけなかったりで、よく見ることができないことが多いので、このような充実した、冊子がありがたい。
 レオナルドダビンチのモナリザを見に行ったときは、何時間も押し合いへし合いで並んだあげく、遠くからわずか数秒見ることができただけで、意外と緑色っぽいと感じただけだった。
 結局よく見えなかった訳だ。
良い作品、その前で足が止まり見入ってしまうような作品に出会えれば良いが、そうでないときは、ほとんど足早に回ってしまい、足が止まるほどのものがなければ、がっかりする。
 それでも写真集や解説本があれば、そちらの方が綺麗(きれい)だったりすることもある。
 私は、かなりの部分、美術館等での写真集、解説本の販売を期待している。
 ほとんど、書店等には、出回らないものが多いからだ。
 古本屋には、随分経ってから出回ることもある。
 こちらの方をきちんと、充実してほしいと思う。

 あとは、長野県人の新人、新作で、見入ってしまうようなものの発掘に期待している。


 話は、変わるが、城山公園や善光寺との協調等の記述もあった。
 この点には、私も期待している。
 可能なら、公民館(蔵春閣)、ふれあい広場、二つの神社、動物園、プール、科学センター等も含め、またこのエリアの道路及び植栽も含めて、整備してほしい。
 善光寺には、大図書館の設置、運営も期待している。
 道路や植栽には、健康のために良い環境で歩ける道がほしい。
 ヒノキや樹や草花等のフィトンチッドやよい香りと木陰のなかを歩けるもの、哲学の道の雰囲気があるものを期待している。
 アスファルトやコンクリートの路面でなく、かかとや膝や腰等に優しい道であってほしい。
 そして植栽の側でくつろげたり飲食できる場所もほしい。


漢字文化圏 [文化]

 漢字文化圏

 少し前に、民放だったか良く覚えていないが、ベトナムと日本の関わりに関する内容だったと思うが、ちらっと見たときに、漢字を文章にして使っているのが映された。
 ベトナムでも漢字で書けば、ある程度通じるのかと思った。

 中国は、漢字を使っているので、かなり略字が独自に発達しているらしいので、分からない漢字もあるが、何となく分かるものもある。
 韓国では、ハングルと漢字と両方使ったり、混在して使ったりしている。
 ハングルの発音でも、漢字の日本語の発音に近いものも結構あるようだ。
 漢字の発祥は、中国にあるが、読み方というか発音は、それぞれ異なるのが残念だ。

 しかし、漢字は優れていると思う。
 表意文字であるが、日本では、万葉仮名のように表音文字としても使ったりもしている。
 今の若い人たちも、表音文字として使っているものがある。

 漢字を使っていると、何となく親近感を覚える。
 同じ文化を共有している、と思うのである。

 王羲之の書がよく、NHKで取り上げられたりしているが、字も綺麗だが、楷書や行書、など字体を開発した人らしい。
 弘法大師空海が、王羲之の書を学んで日本に戻ってきて、その書について、興味を持って学んで、色々造ったようである。
 篆書とか、飛白体とか、形象文字とか色々やっている。

 これらの試みからひらがななどが生まれ五十音を造る契機となった気がする。
 弘法大師空海の宗教を真言宗というのも、言語について良く学んだ、いろいろ造ったこと、また、それぞれの国での言葉を尊重したことも良く表す命名だと思う。
弘法大師の、「声字実相義」の頌や偈も素晴らしいが、「声字分明にして実相顕わる」という言葉がとても気に入っている。
 空嘘な言葉、いい加減な言葉、嘘の言葉、ごまかしの言葉、分かりづらい言葉、曖昧な言葉、明確でない言葉でなく、音声や文字が分かりやすく明確なものであれば実相が顕われるということに、声字、言葉、言語の体、相、用が簡潔にまとめられている気がする。

 

岩波書店創業100年とのこと [文化]

今年は岩波書店創業100年とのこと。

 随分とお世話になった。
 特に、岩波新書と岩波文庫と我妻栄の民法講義と広辞苑と仏教辞典に一番お世話になった。
 新書と文庫以外の本は、実に装丁がいい。
 紙質も良かった。
 しかし、本の内容は堅いものがほとんど。
 難解で1ページ目で放り出した本が何冊あっただろう。
ほとんど積ん読していた感じ。
 岩波新書と岩波文庫の九割方が、最後まで読めて、全て内容が分かれば、日本でも第一級の知識人になれるのではないかと思われた。
 辞典は、まあなんと簡潔すぎるくらい凝縮した言葉で解説されているのだろう。
 辞典を引いてもまだ分からないということも、度々あった。
 専門辞典は、小辞典等も入れればかなりの分野のものがある。

 岩波文庫が典型的だが、岩波の本は、古典であるもの、古典になり得るものが多いので、原文そのままでは、とても一般の人には読めないだろうということで、日本語訳にしてあったり、それでも足りず、頭注や脚注や段落毎の注、更には巻末に補注まで掲げてある。
 そのため、しおりが現在読んでいるところだけでは足りず、段落注や補注にもしおりを挟んでおかなければ読み進められないというものが多い。

 また、注だけでは足りず、巻末につけている解説がまたすごい。
 翻訳者、注釈者が解説しているものと、更に他の学者が解説しているものとある。
 この解説が、本文の理解を助けるようなものが多いのだが、その格調は高く、水準も高い。
 まるで、新たに一つの論文を読んでいる、教科書を読んでいるように感じられることすらあった。
 それにまた、出典や引用書籍のリストや参考文献まで細かく載っているものが多い。
 古典をひもとくに岩波文庫ほど優れているものはないだろう。
 よくこれだけ、第一級の知性に翻訳や注釈をしてもらったものだと思う。
 記憶に残っているのは、「石川啄木歌集」、プラトンの「テアイテトス」、仏陀「真理の言葉」、中勘助「銀の匙」、トルストイ「人は何で生きるか」、「人生論」、ハンスリック「音楽美論」、ソフォクレス「オイディプス王」等


 岩波新書も同様である。
 こちらは、入門とか伝記とか現代の問題の現時点の学問状況等が新書になっている。
論文演習等で買わされた清水幾多郎「論文の書き方」、渡辺照宏「お経の話」、「日本の仏教」、「仏教第二版」、松長有慶「密教」、三枝充悳「仏教入門」等仏教関係、渡辺洋三「法とは何か」、「法を学ぶ」、川島武宜「日本人の法意識」等の法学関係、宮城音弥の心理学関係は良く読んだ。


 長野県内の諏訪地方に風樹文庫という図書館があり、岩波書店の本をそろえているそうであるが、中、高、大学校図書館、公立図書館には、岩波文庫、岩波新書、ジュニア新書、岩波全書、小事典シリーズ、各種専門辞典、専門事典は最低限全部揃えておいてくれれば、絶版とか在庫無し印刷予定未定で読めないということがなくていいと思うのだが。
 図書館で表紙等にフィルム等貼って、汚れにくく破れにくくして整備して欲しい気がする。
そこでざっと見て、自分でも持っていたいと思うものを買えばいいと思う。

 年をとってからではなかなか読めない。
 一つには、好みが偏ってきて、好み以外は、理解できなくなったり、読む意欲が持てなくなる。
 一つには、目が弱ってきて、文字を追うことすら困難になってくること。
 岩波文庫の文字の大きさでは、読めなくなる。
 一つには、年をとってからでは、読むスピードも遅くなるし、理解も困難に、また、覚えることも難しくなること。
 だから、できるだけ若いうちに身近に置いておいて、できるだけ読んでおいた方がいい。
 小中高大学校の頃にどれだけ多くの良い本を読むか、が大事なことだと思う。
 このころは、お金がなくて自分では買えないだろうし、社会に出て勤めたころには、お金があっても仕事関係の本を読むので手一杯になってしまうし、まとまった読書の時間をとることが難しくなる。
 翌日の仕事に悪影響が行くので、徹夜で読むこともできない。

 貸し出すと本の傷みも多いので、重版等も買っておいて複本化しておく必要もある。
 そのうちに岩波書店と、古典のデジタル化を共同でやって、より読みやすくして欲しい気がする。

 岩波書店といい、筑摩書房といい、他にもいくつか長野県人が創業した出版社があるが、いずれも素晴らしい本を出している。
 これらはやはり、図書館に備えておいて欲しいと思う。
 筑摩書房には、弘法大師全集がある。

 岩波書店の全集には素晴らしいものが山のようにある。
 他の出版社の追随を許さぬほどである。
 哲学関係は、西洋東洋の巨人のものは随分揃っている。


八重の桜の中の井伊直弼の場面を見て [文化]

NHK大河ドラマ「八重の桜」なかなかいいですね。
主役も脇役もいい。

ドラマの中の教養部分もいい。

 今回ちょっと目にとまったのは、井伊直弼が茶を点てて、容保にもてなす場面だった。
 茶筅を洗った後、右下方向に突き刺すように払ったのには違和感を感じた。
ちょっと変。
 井伊直弼と言えば、「茶湯一会集・閑夜茶話」という著作物があり、岩波文庫からも出ている。古典とされているものを書いた人でもある。
 もう少し生きていたら、どれほどきちんとした茶道の本を残したろうと言われる人だったらしい。
 流派は、石州流というらしい。
 まだ、読んでないのだが、目次を見る限り、表千家の茶事(濃茶薄茶)とほとんど同じで、違うと言えば、表千家が、客の前で片付け始めるとか、茶会が終わり客を見送るとき、挨拶したら客をそのままにして先に障子を閉めて、奥へ入ってしまうのに対して、石州流は、客の姿が見えなくなるまで、そこで見送り、客がいなくなってから、茶室へ戻り、一期一会に思いを馳せ、場合には、さらに独服するというところが違うようだ。
 この点は、井伊直弼の方がいい感じがする。
 一期一会という言葉も井伊直弼が使い始めたという説もある。
一生に一回限りの出会いという意味のようだ。
 仏教語小辞典(ちくま学芸文庫)によれば、一期は、『倶舎論』にあり、一会は、修二会とか、涅槃会とか降誕会とか、施餓鬼会などの、仏事の会の一つのことをいうとある。
 一期、一会それぞれは、仏教から来ているらしいが、つなげたものは、直接的には、仏教にはなさそうだ。

 ところで、これら茶道については、あまり○○道という感じがしない。
 特に、掛け軸、花、茶器、茶碗、炭とかをいちいち拝見などと変な感じ。
 外で、つくばってあいさつするとか、茶室に、にじりいるなどというのも、へんな感じ。
 市中山居とかで、露地に常緑の状態をつくっておくというのも、その環境はいいが、金持ちしかできない道楽だなと感じてしまう。
 濃茶の回し飲みは、酒でもそうだが一体感をもたらす日本の伝統的なあり方でもあるとかいうが、回し飲みは衛生上どうかという感じ。
 何よりも、一人で飲むというのが無いようなのが不満。
 日本における茶は、臨済宗祖師の栄西が中国の茶を見聞きしてき、茶の種を持ってきて、宇治とかで植えて日本での茶が始まったといわれている。
 栄西の『喫茶養生記』は短文であるが、茶を養生の位置づけ、薬のような位置づけにしている。
 そして、臨済禅の禅をするとき眠くなるので、眠気ざましに飲んだらしい。
 このように日本では仏教者から始めたようなので、この原点からの茶道を期待する。
 仏壇の前や、月輪や阿字の絵の前でとか、壁に向かってとか、観想、瞑想、座禅と組み合わせ、数息観、阿字観、月輪観等の観想や呼吸法等の前後に喫茶をするようにし、心身の健康と向上のために、独服するという、庶民誰でもできて、心身の健康にいいものを始めたいものだ。

 ゆずや、ショウガや抹茶を極めるとかいって、色々な人が色々な製品を今でも開発していただいているが、茶事のような茶会でなく、色々な場面で抹茶を飲む習慣を日本に確立してほしいと思う。
 とりあえずは、朝の眠気覚まし、口臭予防、心身のリフレッシュ、毒消し、心臓の健康等のため朝に飲むことを普及したい。
 高野山や東寺や智積院や根来寺、密厳院、善光寺大本願、正覚院等でもそのようなことを開発して庶民の喫茶の風を起こして欲しい気がする。
 今のままでは、一番安い抹茶でも2100円以上する濃茶にはとても庶民には手が出ない。大勢が飲むようになり、抹茶が安くなることを期待している。

 「喫茶養生記」の中で、「五臓の和合門」のタイトルで、肝臓は酸味で柚子等、肺臓は辛みでショウガ等、心臓は苦みで茶等、脾臓は甘みで砂糖等、腎臓は鹹味で塩等としてこれらをとると良いとしている。
 柚子とかショウガとか、抹茶とか、糀の甘さとかを極めるとして色々開発することを提言してきたが、それぞれ昔から良いとされてきていたんだということを今回初めて知ったのは、何か因縁めいたものを感ずる。
 庶民の日常茶飯として、抹茶の喫茶を独服の茶道として確立されることを強く願うものである。
 併せて、本当に心身の健康に役立つものは何で、逆効果になるもの、デメリットも、科学的に解明しつつ、より心身の健康に良いものへと向上させて欲しい。
 毒消しの効果があるということは、病気の服薬の効果を失わせるというデメリットもあるかもしれない。
 あくまで科学的に、人間の心身の健康に良いものにと、進めていきたい。
 

テレビの長時間番組について [文化]

テレビの長時間番組について

 最近、4時間とか5時間とかの長時間番組が増えてきている。

 何故、こんなに長時間番組が増えたのだろうか。

 コマーシャルをいっぱい挟めるから?
 いくつも番組を作れなくなってきたから、同じギャラで、同じキャラで、時間を稼いで、経費を削減したいから?
 BLUE RAY DISCが、標準画質なら6時間ぐらいを1DISCに納められるから?
 BD・ハードディスクレコーダーが、録画容量2TBが、ざらになってきたから?
 BD・ハードディスクレコーダーが、複数チャンネル同時録画できるようになってきたから?

 私としては、とてもそんな長時間集中してみられないし、ビデオで見かえすにも、長時間で、再生をためらってしまう。
 普段は、とてもそんな長時間見ていられる時間はない。
 せいぜい、長時間見ていられるのは、年末のレコード大賞と紅白歌合戦くらいだ。

 5分、10分、30分、1時間、2時間を限度として、番組を造って欲しい気がする。
 2時間も映画ぐらいなら見ていられるが、それ以外は、きつい。
 だいたい宴会も2時間が限度だろう。
 長居する客は、回転率が低下し売り上げが減るので、店から嫌われる。

 長時間番組は、ほかの番組が見られなくなり、視聴回転率が下がるし、内容がまず全て見られない、トイレに立つとその分見られない、ビデオでも途中でトイレや電話や来客等で見られないことが重なるので、全部見られることは少ない。
 早送りで見てもかなり時間がかかる。
 コマーシャルカットとか、お気に入り以外削除等の編集時間が、かなり長時間になってしまう。

 ほとんどの人が休みで家にいて、しかも寒いから外に出ないときぐらいに長時間番組は絞って欲しい。
 年末と正月三が日くらいしか見られないだろう。

 是非、見やすい時間に絞った、内容の濃い番組をお願いします。
 

4月8日に寄せて [文化]

4月8日に寄せて 晴天

1.桜咲く
地上を埋め尽くすように
桜咲く

(行ってみれば)

空を覆い隠すように
桜咲く

香りで満たすように
桜咲く

白く、桃色に、色淡く
桜咲く


2.一目千本の桜咲く
釈迦生誕を祝うように
桜咲く

無憂樹(むうじゅ)の下で
花御堂にと
桜咲く

九頭竜の清浄五香水に
ちなむ甘茶飲もうと
桜咲く

花供養するごとく
桜咲く

千本釈迦念仏のごとく
桜咲く

静かな祭りだ花祭り
晴天とともに桜咲く
光明とともに桜咲く
希望とともに桜咲く

竜華会とつないで
桜咲く

 [文化]

 昨年の清水寺の漢字一字は「変」であった。
2008年平成20年は、変乱といった方が良いくらいだった。
変革という言葉は、その実も無く、空しく響くばかりだった。
 行きすぎているものが多いので、「へ」から「ふ」へ少し戻して考えてみた。
 思いついたのは、風(ふう)。

 年末恒例のNHK紅白歌合戦、前半の最後が、白組は「千の風になって」、赤組は、「風に立つ」でした。
 ふと、日本において、風という言葉は、特別なものがあるのではないかと感じた。

 風俗、風習、風土、風流、風情、風華、風格、風景、風光、花鳥風月、風樹、風味、等の漢字を並べてみても広い分野で使われている。
 風を知るものは、日本の文化を知ることができるのかも知れない。

 また、仏教でも、地、水、火、風、空、識、と並べて、よく使われる。

 風には、本質として「動き」、作用として「生長」が充てられている。
 生きているということは、動いていること。
 変化し生長していることが生きているということなのだろうか。

 ア、ヴァ、ラ、カ、キャ。
 アビラウンケン ウン。
 ア ウン。
 風はウン(hum) 識もウン(hum)。

 今年は、清風を見ることができますように。

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