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八重の桜の中の井伊直弼の場面を見て [文化]

NHK大河ドラマ「八重の桜」なかなかいいですね。
主役も脇役もいい。

ドラマの中の教養部分もいい。

 今回ちょっと目にとまったのは、井伊直弼が茶を点てて、容保にもてなす場面だった。
 茶筅を洗った後、右下方向に突き刺すように払ったのには違和感を感じた。
ちょっと変。
 井伊直弼と言えば、「茶湯一会集・閑夜茶話」という著作物があり、岩波文庫からも出ている。古典とされているものを書いた人でもある。
 もう少し生きていたら、どれほどきちんとした茶道の本を残したろうと言われる人だったらしい。
 流派は、石州流というらしい。
 まだ、読んでないのだが、目次を見る限り、表千家の茶事(濃茶薄茶)とほとんど同じで、違うと言えば、表千家が、客の前で片付け始めるとか、茶会が終わり客を見送るとき、挨拶したら客をそのままにして先に障子を閉めて、奥へ入ってしまうのに対して、石州流は、客の姿が見えなくなるまで、そこで見送り、客がいなくなってから、茶室へ戻り、一期一会に思いを馳せ、場合には、さらに独服するというところが違うようだ。
 この点は、井伊直弼の方がいい感じがする。
 一期一会という言葉も井伊直弼が使い始めたという説もある。
一生に一回限りの出会いという意味のようだ。
 仏教語小辞典(ちくま学芸文庫)によれば、一期は、『倶舎論』にあり、一会は、修二会とか、涅槃会とか降誕会とか、施餓鬼会などの、仏事の会の一つのことをいうとある。
 一期、一会それぞれは、仏教から来ているらしいが、つなげたものは、直接的には、仏教にはなさそうだ。

 ところで、これら茶道については、あまり○○道という感じがしない。
 特に、掛け軸、花、茶器、茶碗、炭とかをいちいち拝見などと変な感じ。
 外で、つくばってあいさつするとか、茶室に、にじりいるなどというのも、へんな感じ。
 市中山居とかで、露地に常緑の状態をつくっておくというのも、その環境はいいが、金持ちしかできない道楽だなと感じてしまう。
 濃茶の回し飲みは、酒でもそうだが一体感をもたらす日本の伝統的なあり方でもあるとかいうが、回し飲みは衛生上どうかという感じ。
 何よりも、一人で飲むというのが無いようなのが不満。
 日本における茶は、臨済宗祖師の栄西が中国の茶を見聞きしてき、茶の種を持ってきて、宇治とかで植えて日本での茶が始まったといわれている。
 栄西の『喫茶養生記』は短文であるが、茶を養生の位置づけ、薬のような位置づけにしている。
 そして、臨済禅の禅をするとき眠くなるので、眠気ざましに飲んだらしい。
 このように日本では仏教者から始めたようなので、この原点からの茶道を期待する。
 仏壇の前や、月輪や阿字の絵の前でとか、壁に向かってとか、観想、瞑想、座禅と組み合わせ、数息観、阿字観、月輪観等の観想や呼吸法等の前後に喫茶をするようにし、心身の健康と向上のために、独服するという、庶民誰でもできて、心身の健康にいいものを始めたいものだ。

 ゆずや、ショウガや抹茶を極めるとかいって、色々な人が色々な製品を今でも開発していただいているが、茶事のような茶会でなく、色々な場面で抹茶を飲む習慣を日本に確立してほしいと思う。
 とりあえずは、朝の眠気覚まし、口臭予防、心身のリフレッシュ、毒消し、心臓の健康等のため朝に飲むことを普及したい。
 高野山や東寺や智積院や根来寺、密厳院、善光寺大本願、正覚院等でもそのようなことを開発して庶民の喫茶の風を起こして欲しい気がする。
 今のままでは、一番安い抹茶でも2100円以上する濃茶にはとても庶民には手が出ない。大勢が飲むようになり、抹茶が安くなることを期待している。

 「喫茶養生記」の中で、「五臓の和合門」のタイトルで、肝臓は酸味で柚子等、肺臓は辛みでショウガ等、心臓は苦みで茶等、脾臓は甘みで砂糖等、腎臓は鹹味で塩等としてこれらをとると良いとしている。
 柚子とかショウガとか、抹茶とか、糀の甘さとかを極めるとして色々開発することを提言してきたが、それぞれ昔から良いとされてきていたんだということを今回初めて知ったのは、何か因縁めいたものを感ずる。
 庶民の日常茶飯として、抹茶の喫茶を独服の茶道として確立されることを強く願うものである。
 併せて、本当に心身の健康に役立つものは何で、逆効果になるもの、デメリットも、科学的に解明しつつ、より心身の健康に良いものへと向上させて欲しい。
 毒消しの効果があるということは、病気の服薬の効果を失わせるというデメリットもあるかもしれない。
 あくまで科学的に、人間の心身の健康に良いものにと、進めていきたい。
 

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