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この頃思うこと 2021/03/05 19:03 [行政]

この頃思うこと 2021/03/05 19:03

1.少し前に、東京都が毎日2000人前後の新規感染者が出ていて、その後クラスター追跡がしきれないとして、クラスター追跡をせずに、効率的に高齢者施設等を中心に、高齢者の検査に集中するようになった。
 これには、驚いた。
 ウィルスを保持していて、あちこちに感染させる恐れがあるのは、動けない高齢者ではなく、あちこち遊び回る若い者たちではないのか。
 感染症対策の欠いてはならない対策は、早期に感染者追跡、感染者接触者追跡、検査発見、早期完全隔離、早期治療、ウィルス保持が陰性であることを確認してからの、治療・隔離からの解放ではないのか。

 個人の行動抑制、地域間移動の抑制、やむを得ず外出しなければならない場合の、感染しない、感染させない対策の実施ではないのか。

 水際対策は、二度も三度も失敗している。
 感染押さえ込みも失敗している。
 医療体制やあらゆる生活必需の物を扱う業種の感染症対策の着実かつ確実な整備、その他接客業等の感染症対策の着実かつ確実な整備等がどれだけ整備できたのだろうか。

 諸外国よりかなり医療資源が多いのにもかかわらず、医療崩壊を起こしていることの課題の解消はどこまで進んだのだろうか。

 ワクチン始め必要な生活物資等の自給率の向上と、それによる雇用確保はどれだけ進んだのか。
 他国からの供給に頼り、数々のノーベル賞に輝くことができた、日本が、自給できず、後進国と言われているところより、ワクチン接種が遅れているのは、恥ずかしい限りだ。
 自給できない国は、国民の生命健康生活を守れないのだということだ。
 goto○○により、死ななくとも良い人間が大勢死んだ。
 今でも毎日死者が二桁以上出ている。


2.私は、貧乏なので、宅配で全てまかなうほどの財力はないので、必要が生じたときに、まとめて買い出しに行く。
 私は、かなり過敏体質なので、風邪を引いている人とすれ違っただけで、すぐくしゃみが出て風邪を引いてしまうのだが、しばらくは、スーパーホームセンター等の売り場を歩いていると、ところどころ風邪のウィルスや細菌がいるのか、空気がよどんだところがあって、そこへ行くとすぐくしゃみが出ていたものだが、最近、二階の駐車場から階段を降りて売り場まで行くときに、かなりの空気が外へと動いているのを感じて、換気を十分にしているなと感じたし、紫外線ウィルス殺ウィルス装置がついていたし、自動ドア、自動水栓、セルフレジと接触をかなり減らしていた。
 当然アルコール消毒用の薬剤は、切れることなくおいてあった。
 飲食業等の弁当等の販売もしていた。
 オンラインショップも始め、宅配する品目も増やしつつあるらしい。
 前にテイクアウトも対応していたという。
 最近は、この店へ行っても、くしゃみが出ることもなく、清潔なおいしい空気になっていると感じられるようになった。
 とても安心できた。


3.LGBとか、未(いま)だにおかしなことを言う人がいる。
 これらは性欲の問題であり、宗教や道徳では抑制すべきものされている。
 にもかかわらず、教育の場で取り上げようとしている。
 正しく、役に立ち、人格を磨くのに役立つ大事なことがいっぱいあるはずで、そちらの時間が足りないくらいなのに、なぜ抑制すべきものを学校等で教えようとするのか。
 学校現場でいった何をしているのか。

 自由な事項であるということは、誰に対しても自分の自由を認めろというものではない。
 そういう自由が欲しいという人だけが、人に迷惑かけずに、ひんしゅくを買わないように、プライベート空間でプライベートな時間にやっていれば良い。
 それだけのこと。人前に出すべきものではあるまい。

 ましてや、他人に尊重しろと強制できるものではない。

 決定的に勘違いしているのは、自由であるということはそれだけの意味でしかなく、自由だから、社会的な利益を得させろとか、財政支援をよこせと言えるものではないということだ。
 この意味で同性婚など、社会制度として認めるべきものでなく、財政的、身分上の利益その他を認めるべきものではない。

 知る自由があるから、表現の自由があるから(これらは、民主主義の基盤的要素であるから、全く個人的な性欲の問題とは決定的に違うのであるが)新聞、テレビ、ラジオ、本、レコード、ビデオを買う金をよこせといったって、そんなもの基本的には、金がもらえない。
 生活保護受給者になったときだけ、新聞、テレビの費用が生活費として認められることがあるかどうかぐらいだ。


4.学校現場で一体何をやっているのかということで、昔、日の丸君が代問題を取り上げたことがある。
 入学式、始業式、終業式、卒業式等であるいは、音楽の時間で教員が君が代の斉唱等を妨げたり、起立せず座り込んでいたり、大声で式を妨害しようとしたりしていたものである。
国旗国歌問題について、政治的主張をしようというものは、SNSで発言するとか、デモをするとか、陳情請願するとか、訴訟を起こすとか、いろいろ手段が用意されている。
 したがって、それらの手段を行うべきで、学校現場で実力行使をして、自分の主張を通そうと混乱を起こすべきでなく、個人の主張を他の人に強制することができるものではない。
 ある意味教育の破壊、教育を受ける権利の侵害である。

 一言で言い換えれば、TPOを守った行動を社会で行うよう教育すべきであるにもかかわらず、TPOを踏み外した暴行でしかない。

 Time時 Place場所 Occasion場合にかなった行動をすべく教育すべきであり、自ら模範を示さなければならないものである。
 TPOを守らない、正当な方法によらない場合、主張の内容如何に関わらず罰せられることがあることを承知しておくべきである。
 TPOを守らなかった教員に教えられたせいか、TPOを守れない人間が多くなっている気がする。
 LGBもその一つである。


5.もう一つ、教員が忙しいから働き方改革をとか、教員を増員しろとかいっているようだが、前にも書いたが、やたらと同じことを日誌、週誌、月誌、学期誌、年誌とか、何度も記載していたり、独自性とかいって、普遍的であるべきものを崩しているおかしな時間の使い方とか、やたらと外国旅行や、研修旅行を繰り返しているとか、クラスの児童生徒全員と、交換日誌しているとか、クラス全員とお友達になるようにしているとか、おかしなことばかりしている。
 かと思えば、カウンセラーを雇ったり、地域の人間に教育してもらったり、総合的な時間だとかいって、自分で調べてきて教えるのではなく、他の業種の人に聞きに行かせたりして、自分の仕事を放り出したり、小学校に担任制とかで多くの教師の仕事を楽にしている、専門職を入れて教師の仕事を少なくしている。
 どんどん自分の仕事を放り出しているだけとしか感じない。
 教員の給料は、公務員の中で圧倒的な高給である。
 少子化の折に、教員を増やすなどという馬鹿なことはすべきでない。
 それよりも、教育のデジタル化、IT化、教材のデジタル化等を進めるべきである。
 その方が教員の働き方改革に資するところも大きい。
 教員の仕事が楽になる。
 普遍的であるべき教育内容が、変に壊されることなく、普遍性と共通性と確実性と、正確性と、高度化が期待できる。

 また、教員の数を増やすより、幼小中高を義務教育化し、給食修学旅行教材等も含め一切の経費を国費負担とする方を優先的に進めるべきである。
 児童生徒の貧困率は、非常に高いからである。

 最近、コロナで大学がオンライン授業ばかりで、友達が作れないので、何のために大学に入ったのか分からないなどといっているものがいた。
 義務教育諸学校が、お友達となることばかりやっていて、教育していないことの弊害が出ているなと感じた。
 学校は、お友達作りをするために行くものではない。
 社会人として、一人前の人間を創るために、するべきものの第一段階である。
 また、個人の人格の形成に努めるべきものの第一段階である。
 その内容は、実学の学習である。これが最優先である。
 この意味で、方言を教えることは、本末転倒である。

 また、多くの道徳書や処世訓では、友人は、選ばねばならない、悪友に近づかず、高めあえる人間を友とすべきである。
そして「君子の交わりは、淡きこと水のごとし」と付き合い方もべったりを避けるようにしている。
 義務教育諸学校のお友達ごっこの弊害が目立ってきている気がする。
 その行き着く先が、赤信号みんなで渡れば怖くないとなってしまうのだろう。
 税金で飲食・物見遊山とか、業者接待を受けるとか、税金で接待費に名を借りた自らの飲食とか。
 これは教育の敗北である。
 税金で飲食、物見遊山は、税金の無駄遣いをなくすべきものの筆頭であろう。

 前にも書いたが、長野県では、昔、岩波文庫の「日暮(ひぐらし)硯(すずり)」にあるように、住民が、博打(ばくち)や酒飲み飲食にふけっていて、仕事を放り出していたので藩の財政が窮乏してしまったので、いかに住民に、博打(ばくち)をやめさせ酒の飲食等をやめさせ、仕事に精出すように持って行くかが大きな課題になっていた。
 この是正に成功すれば、財政窮乏から脱することができるのである。
 果たして、現在の日本では、どうか。
 カジノの博打(ばくち)を進めようとしたり、税金で飲食、物見遊山をさせたり、借金が1000兆円を超えているのに、税金を何に使っているのか。
 gotoや物見遊山、飲食のために100兆円を超える借金等をしたとか。
 国のすべきこととは違うのではないか。


6.儒教が宗教だと決めつけた判決が出たとのこと。
 孔子儒教は、宗教ではないと思うが。
朱子学は、孔子儒教と仏教を取り入れて朱子の考えをまとめたものともいわれているから、仏教的の部分は、宗教と言われることもあるかもしれないが。
 ただ、仏教そのものも、宗教というよりは、実学や道徳哲学や心身の健康法のような感じで、宗教ではないのではという人もいる。


7.消費的税金の使い方からの脱却
 何十兆円の税金を使ったが、しばらくたったら対策前の状態から何も改善されていなくて、ただ金をばらまいただけ、何も得るものがなく、また引き続き税金にたかられむしり取られるだけというのは、税金の消費的な使い方で改めなければならない。
 江戸時代に藩の財政が窮乏し、商人に絡め取られてしまっている状態のものがあったとか。
 そんな状態に近づいていないだろうか。


7.選択的夫婦別姓について
 国会でも議論されているが、結論から言うと私は反対だ。
 姓は、古代の姓の意味ではなくて、氏と似たような意味で、血筋みたいなものをいうようだ。
 戸籍法も住民基本台帳法も氏と名という用語しか用いていない。
 標題は、選択的夫婦別氏を主張するものであろう。

 氏は、血筋的な集団につける名称のようだ。

 戸籍も家族親子で一つの戸籍を編成する。
 そこで氏名を本籍とともに記録する。
 戸籍筆頭者も通常親の一方がなる。
 
 住民基本台帳も家族世帯で一つの住民基本台帳に編成される。
 そこで氏名と住所が記載される。

 いずれも家族という集団を対象としている。
 いずれも筆頭者や世帯主を明示する。

 過去において、夫婦別姓、別氏の時代があったらしいが、現在の法制では、夫婦同姓・同氏としている。
 つまり同氏に進化してきたと言える。
 それは次の理由によるのではないか。
 家族という基礎社会集団を他と区別識別するために、○○氏という名称をつけた。
 個人に氏名をつけるのと同じ、他と識別するための名称を与えるものである。
 一般論として名称は現象に対して他と識別するために名付けられるものであり、個人の氏は、個人だから当然別の名前をつけることはあり得ず、現象に対して一意の単一の名前でなければならない。
 一方、家族は、社会の最も基礎的な集団であり、個人の意志に関係なく構成員となるとされている。
 子供については、端的にそのように言える。
 一方夫婦は、婚姻前は、それぞれ氏を持っている。
 そして婚姻という事実と意思によって家族という基礎的社会集団の一員となる。
 さて、この家族という集団の名称として、法は氏を用いている。
 そして、名称のあり方として、一つの氏を用いることとしている。
 名称であるから、一意の単一な名称でなければならず、この集団に二つの名前をつけることはあり得ない。
 自由民主党という集団に、日本破壊党という名前を公式に重複してつけることはあり得ないのである。
 したがって、この家族の構成員は、集団名称の氏を名乗るのである。
 法制は、婚姻時に夫の氏を名乗るか妻の氏を名乗るか選択して、その氏を戸籍の名称とする。
 したがって、生まれた子は、その氏に自動的になる。
 非常に合理的で混乱もなければ手間もかからない。

 名称付けのルールに則(のっと)って一つの氏をその集団の名前とせず、名前付けの否定にも近い別姓別氏としたらどうなるのか。
 外部から婚姻しているか否か、誰と同じ家族なのか、誰が子供なのか等が分からず誰が代表なのかも分からない。そして子が生まれるたびにどちらの氏を名乗るのか、いちいち確認しなければならない。
 妻の主張で別の氏を名乗っていながら子供に親の恣意を押しつけて氏を決めるのか、子供が成人してから意思を確認して氏を決めるのか、どんどん支離滅裂になっていく。
 個人の利己的主張だけで社会に混乱を招くだけの主張であろう。
 夫婦は基礎的集団の最小単位であるべきはずが、対立する二者の融合しない単なる同居にしか過ぎなくなる気がする。
 混乱や不合理が著しく、集団に名前をつけたと言えず、名前一般の意味がなくなる。

 また、夫の氏を名乗ることから、家制度を残すものと批判するものが多いが、逆ではないか。
 婚姻前の氏を名乗ることの方がよほど交わることのない家制度を残すものという方が当たっているのではないか。
 夫婦別姓は、いずれにしても合理性を追求してきた法制度を破壊することにしかならないと思う。
法制度の進化を逆行しようとすることでしかない。

 社会的に獲得してきた名声とその環境の人には、通称、ペンネーム、愛称等を用いていればよく、法的関係、法的身分関係、法的財産関係等の場面では、戸籍法上、住基法上の同氏を用いるべきである。
 これを変える合理性は見当たらない。
家族という基礎的集団の名前なのだから。


8.物価ターゲットで値段だけを上げることを促したものがいた。
 物価だけ上げれば、格差が拡大するだけで、国民の生活が破壊される。
 そもそも価格は、需要と供給のバランスと、自由競争の上での最適化による合理的価格により決定されるべきであり、政府が値上げをいうべきでなく、逆に物価安定のため値上げを抑制するよう努めるべきものではないか。

 関連して、前は、民間営利企業の経営に対しては、国、地方公共団体は、保障しない。
 そのことは、債務保障しないという原則で貫かれていた。
 そもそも資本主義の利点は、資本が社会の必要性、需要に答えるに最適な経営をするものに資本や資源を任せることが、国民の利益となるというところに、あった。
 中身を問わず、誰かも問わず、公益性も問わず、赤字続きなところにもかかわらず経営を助けるべく税金を野放図に投入することは、最適な経営者に資本と資源を使わせようとする趣旨に反し、無駄を生むにとどまらず、国民の利益が、これら不適格経営者に奪われるということしか意味しないからだ。
 資本主義の利点を外してしまえば、いろいろいわれている、資本主義の欠点ばかりが表立ってくるだけになる。

 一方で最適者に集まるのは良いが、それが一部の利益を膨らますことだけになってしまってはならない。
 一部のものに収益が富が集中していけば、パイの総量が同じであれば、大多数のものへの配分が少なくなるのは、当然である。
 一部が多くとれば、他は、どんどん少なくしかもらえなくなるのは当然。
 格差が拡大する一方になり、大多数が、健康で文化的な最低限度の生活が得られなくなり、憲法に反する状態が生じてしまう。
 富めるものが多く取り過ぎないよう、税その他の制度により問題を解決していかねばならない。

 「青天を衝(つ)け」という大河ドラマが始まった。新しい一万円札の顔となる渋沢栄一の物語だそうだ。
 経済と道徳の一致を主張したとのこと。
 私は、成果としての、500以上の企業や団体の設立をしたり設立に関わった人という点を尊敬している。
 今の日本に必要な製品、サービスを作り出したりする会社や産業を作り出してほしいと思っているところだから、今後そのような動きがいっぱい出てくることを期待している。
 ものづくり日本の復活を期待している。



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