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NHK Eテレ TVシンポジウム「新しい学びに図書館を生かす」を見て [課題 教育]



 この番組を見て、今までこのブログで書いて反対してきたことを更に進めようとしていることにがっかりした。

 このブログで、教育のテーマで書いたものをもう一度見てほしい。

 一つは、調べ学習だが、2013/1/1に書いたことで指摘したが、プロジェクトベースラーニング、プロジェクトメソッドに絡めて、その問題点を「これは、学習者の考えに依存する度合いが大きすぎて、方向性のない経験主義に陥るとの批判もあるし、生活重視の学習指導は、その実際において基礎学力を低下させるという非難を受け、科学に基づく系統的知識を学習しにくいという批判も受けた。」と引用して指摘したところである。
 トンボの羽の例で、その欠陥がそのまま出ていたのではないだろうか。
 トンボの足がスイッチで足が草に触れれば、羽ばたきが止まる。幾つかの本にそう書いてあるという部分も問題である。
 これを聞いて首をかしげてしまわないだろうか。
 本も正しい内容であるとは限らないことを忘れている。
 結局正しい知識が得られなかったのではないだろうか。
 自然科学的に正しい知識が得られなかったのではないか。
 疑問も解決できなかったのではないか。
 一番肝腎なものが抜け落ちたのではないか。


 図書館や地域の人等が学校の支援をすべきだという点も、何度も指摘したが、特に幼児教育の項で、家庭に任せておいては駄目なのだということが、世界の教育の中で確立した考えであること、幼児教育で間違って教えたら修正できないという問題も、小学校の例だが、やはりと思わせるものがあった。
 そしてまた、学校教員の専門職としての自覚の欠如と、職責の放棄と、現実的に不可能なことの要請をしていると感じられた。
 図書館にどれだけのスペースが得られるのか。
 数何人が対象なのか。
 誰が相手できるのか。
 蔵書数がどれだけあると思うのか。
 どれをとってもレベルが低い環境しかないのに。

 推薦図書一覧を見ても、ほとんど物語で文学作品のようなものばかりではないか。
 自然を構成するもの、生命の仕組み、科学事典とか成り立ちとか仕組みとか数学の歴史とか解法とか物理の考えとか、言葉とは、論理的な考え方とか、倫理的な生活とか、憲法とはとか、民主主義とは、国民主権とは、外交とはとか、そういった類いの推薦図書が何冊あるのだろうか。
 おそらく現場は、ものすごく偏った資料になっているのではないだろうか。
 そもそも長野県立図書館でさえ何百万冊も所蔵しているわけではない。
 図書館としての機能を発揮し始めるのは、300万冊以上になってからとか言われているのに。
 地方の図書館、学校の図書館がどんなお寒い状態なのか知らないのではないか。
 そもそも書店でも、大規模書店を除けば、ほとんど岩波文庫や岩波新書も揃っていていない。
 書店員に言わせれば、堅い本は、買う客が少ないから、商売にならないのでということだった。
 図書館側も、この程度の蔵書数に過ぎないのに、蔵書スペースの余裕がないから、図書の寄贈を喜ばないという感じだった。
 東京は、金があるから、事情が違うのかもしれないが。
 教育の問題点は一緒で、科学的、系統的、普遍的な知識・技術・技能・学びの方法・態度にマイナスが大きいものもあるということである。

 主体的と対話的と深い学びも、それぞれは正しいが、必ず結びつくものではないものを安易に結びつけてしまっている。
 社会と個人を全面的に結びつけてしまっている印象を受ける。
 社会と個人との関係では、東寺と高野山金剛峯寺の都と山の二つがあることを否定しているような気がする。

 やはり、科学的な裏付けのない、現実を踏まえない、目的も曖昧な、気分的な物言いに終始しているような気がする。

 高校の例だが、小中でも似たようなものだろうと思うが、総合学習の時間が総合的な探究の時間となって、3~6単位(2単位まで減らせる)とあった。
 高校は、35単位時間で一単位としているから、一時間が単位時間なら35時間×2単位~6単位となる。
 2単位でも70時間である。ならして考えれば毎月5時間以上となる。
 教員が対応できるのだろうか。
 押しつければ、生徒に全てやらせて、皆で発表を聞くだけで終わりとしてしまうのではないか。
 これで何が教育になるのか。教員はいらないではないか。
 そして教育は何もしなかったことになる。
 そして、科学的裏付けのないおかしなことばかり言う人間ができあがってしまう。
 
 探究という言葉も探究という教科科目名もなんなんだこれという感じ。
 探求ではないから、単に探し求めるだけではなく、探究だから 「物事の真の姿をさぐって見きわめること」(広辞苑)
 義務教育や高校教育で教える内容は、既に物事の真の姿をさぐって見極められたことから、一般人の会得しておくべき知識、技術、技能に関すること、ではないのか。 既に明確になっていることを何を探究するのだろうか。
 それとも、教科内容が、曖昧なものばかりなので、科学的に探究して正しいものを明らかにしてほしいという程度の内容なのだろうか。
 そうだとすれば、いったい何を教えているのだろうということのオンパレードではないか。

 アリストテレス等以来の学問分類名をむやみやたらに変えることは普遍的科学的合理的論理的といえるのだろうか。
 高校の例では、古典、地理、日本史、世界史、理数、総合的な時間に探究の文字がついている。
 古典の例をとると、「生涯にわたり古典に親しむ態度を養う」とある。

 科学的で、合理的で、論理的で、普遍的で、現実的で、投資効果比の高い教育を期待する。

 なお、先の衆議院選挙で、18才19才の国民が、自民党に投票したものが多いという結果が出たが、主権者教育は、何をしていたのだろうか。
 大学入試に関係ないから、誰も履修せず、誰も出席しなかったのだろうか。
 科学的、合理的、論理的、普遍的、現実的、投資効果比の高いことを教えて、主権者として、判断投票すべきことを教えなかったのだろうか。


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