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憲法改正等について [憲法]

憲法96条改正等について

 憲法96条改正を参院選の公約にすると自民党が宣言したそうである。
 残念である。
 自民党が、党の綱領に憲法改正を盛り込んでいるとのことであるが、自民党支持者の大多数の支持を得ているとは思えない。
マイペディアによれば、1956年4月に鳩山内閣が発足したときに綱領に憲法改正を掲げたとされており、自由党、日本民主党の頃には当然無かったと思われる。
 自由民主党に合同したときも最初はなかったのではないかと思われる。

 少し前の民放で「スクランブル」「報道ステーション」「ひるおび」のどれかの番組だったかで、自民党内にも改憲派と非改憲派がいると報じられていた。
 1956年からちょっと前までは、綱領にあってもほとんど国会に発議する行動には出てこなかったことを見ると、実際問題として、憲法改正の必要性は、乏しいとみていたのではないかと思われる。
 自民党政権は長かったのであるから、その間に出してこなかったことは、そのことを裏付けると思われる。

 さて憲法96条先行改正についても、私は既に反対を述べてあるが、上記の「ひるおび」や今日の信濃毎日新聞の特集を見ると、諸外国が、憲法改正のハードルは低く、改正も何回もしていると自民党が主張しているが、諸外国のハードルは、決して低くなく、日本と同じか、更にハードルの高いものがあると報じていた。
 また、改正回数が多いのも、議員の報酬の額とか、日本では、法律等下位法令で定めている内容を憲法に規定しているので、改正の必要が高いものだからであり、3分の2等のハードルの高さのまま改正が為されているのであった。
 従って、真に必要で、国民が納得するものは、改正できているのである。

 日本だけ、ハードルを低くすることは、憲法の規定内容が、他の諸国に比べ、根本法、国家権力規制法にかなり純化しているので、逆に憲法のあるべき姿から逆行するものとなる。
 国民主権、民主主義、多数決原理、最大多数の最大幸福に反するものである。

 日本国憲法は、憲法のあり方からして、世界の中でも、人類普遍の原理と人民の理想と目的を正しくとらえ、最先端を行っている憲法であると感じている。

 従って、憲法改正の内容が問題なのであって、それを隠して改正要件をいじるのは、不適切であるし、必要でもなく、危険なことである。
 国民主権をないがしろにするものである。

 そして、発議要件の方は、議員の3分の2といい、定足数的な絶対多数を確保することを要件としているが、その次の段階にある、国民投票の方は、有効投票数の過半数で決すると解されている。(宮沢俊義 日本国憲法)
 この国民投票が、有効投票数とすると、定足数的な、絶対多数を確保する要件が無く、極端な話、国民投票の投票数がそんなもの通るはずがないと、行かなくても一緒だと考えて投票しないと、有権者のほんの一部、例えば、投票者が500人だったとすると、その投票のうちの有効票の過半数、例えば、有効数480票の半分以上、241票で改正できてしまうことになる。
 自民党国会議員の数で改正できてしまうほど、国民の絶対多数を必要としないことになってしまうのである。
 これは、一部の人間によって大多数が支配されてしまうという、民主主義といえない結果をもたらすものである。
 従って、国民投票は、有権者の絶対多数の同意という数を要件とすべきであろう。
 どうも既に簡単に造ってしまった、国民投票法は、この絶対多数の確保の点で欠陥がある恐れがある。
 つまり、宮沢俊義氏の説には、問題があると思われる。

 従って、選良である国会議員の要件数を少なくする方向に改正するということは、世界でも類を見ないほど、簡単に改正できることになり、世界の大勢に大きく反することになる。

 ところで、憲法改正する内容の法の明示的な議論と、改正案の通り改正したらどうなるのかを明確にして議論しないと、気づいたら、戦地で戦争する羽目になり、相手に殺されるか、敵前逃亡で味方に殺されるか、どちらかになり、ほとんど圧倒的な勝利を得られなければ、まず、死ぬ確率は、非常に高いものである。

 このようなことを、隠して、96条を先行改正しようというのは、非常に卑怯なやり方であり、信頼の置けない対応である。
 これが美しいあり方なのか、卑しく、卑怯で、背信的で、犯罪的な行いではないのか。

 美しい国、良き伝統というのは、このようなことをいうのではないはずだが、恥を知るべきではないか。

 さて、信毎の今日の特集に、自民党の改正案のうち、前文の改正案と、主な項目の改正案ポイント概要が報じられている。

 自民党案の前文の文章のひどさ、格調の低さ、内容の不明確さ、内容の悪さ、不適切さは、あきれるほどである。
 伝統とは何か、は不明確である。
 人民主義でなく、国家主義である。人の上に天皇と国家を置いている。
 人民には、義務のみ押しつける感じである。
 「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」は、精神論のみであり、グローバルの視点は全くなく、世界の中で孤立した内向きの日本をイメージさせる。
 「郷土を自ら守り」の意味してしまうことは、アメリカのように、国民がそれぞれ、銃や武器、必要なら戦車やロケット砲その他必要な武器を持ち、自ら守れと言っているようなもので、アメリカにまねた、武力による生活の確保をしろと言っているようなもので、あるいは、北朝鮮の先軍政治をいっているようなものだ。
 こうすれば、銃等による凶悪犯罪が頻発し、国内治安は、一気に悪化すると思われる。
 いじめ問題が頻発したり、ブラック企業が頻発するようなところで、武器を持たせたらどうなるか、おぞましいことである。
 自民党は、言っていることの意味を理解していないのではないか。
 9条も、戦争の放棄は、そのままとし、国防軍を設置し、交戦権を否定しない、とあり、戦争の放棄と矛盾することを言っている。
 その他も内容がどこまで及ぶか、不明瞭で、現憲法の良さを損なう改悪案だらけである。

 感情論、精神論のみ目立ち、論理性も、合理性も、有用性も、理念も、美しさも全く感じられない。

 自民党案の通りにしたら、どうなるか、自民党員に分かっているのだろうか。

 しかし、これが東京大学法学部出身者や官僚出身を多く抱える自民党の出してくる案なのだろうか。
 いったい東大法学部は何を教えているのだろうか、いったい官僚はどのように洗脳されているのだろうか、と心配になる。


 もっと、日本弁護士連合会や、憲法学会や、教育関係やマスコミその他は、憲法に関しての、基礎知識と、現在の動きと、その問題点の整理とをして、毎年、見直して、ホームページ等で、公開して、国民に情報提供すべきだと思う。



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